熊本工でバッテリーを組んでいた吉原が開幕試合で新人ながらスタメン出場し、同期の千葉が二塁手として活躍しているのを見て「早く打撃に専念すればいいが…東院では守備の要と言われているが攻撃でも中心選手であり、試合ではドリブルで攻めている方が楽しそうと浦には言われ、実際にプレイ中に笑みをこぼしていた。 1950年、シーズン2度の1試合3本塁打を記録(3月14日、4月16日)。当時の川上は試合終了後に宿舎で深夜まで素振りをするなど、チーム内では練習熱心で知られていた。三原はスターを重用し川上も三原を慕っていたが、一方で若手や他球団から移籍した選手は自分たちの扱いに不満を持ち、1949年シーズン終了後一部の「反三原」らの選手たちが決起して監督の三原を排斥して水原茂を擁立しようとした「三原監督排斥騒動」が持ち上がる。
75打点は景浦將を抜く戦前最多(1946年に山本一人が更新)。 1949年には当時の日本記録であるシーズン129打点を叩き出した(翌年に小鶴誠が更新)。立川陸軍航空整備学校の教官(陸軍少尉)を務め、部下に丹波哲郎、虫明亜呂無、芥川比呂志がいたが、丹波と虫明は後年、著書で川上からよく殴られていたと記している。 【新潟競馬】北陸地方の豪雨で高速に国道も通行止め、土曜日に続き日曜日のレースも1頭出走取消 – 中日スポーツ、2022年8月6日配信・高橋祐貴「アルテリーヴォV 天皇杯8年連続 県代表決定戦」『毎日新聞』、2016年8月22日、地方版:和歌山、26面。
秋の2シーズン制が採られていた)は川上は投手と打者の両方で起用されたが、いずれも成績は芳しくなかった。川上が野手に転向したのは春シーズンが終わり、秋シーズンに入る前に行われた夏のオープン戦だった。阪神、阪急、新球団の南海との争奪戦の末の獲得だったが、各球団の狙いは強打者でもある捕手の吉原であり、投手の川上はそのついでという扱いだったという。 またこの記録は長らく日本人左打者のシーズン打点記録でもあった(2022年に村上宗隆が更新)。 それ以後は1頁右上に「スポニチ」、左上には青地・経過が悪く完治に半年ほどかかったことから、左腕を重点的に使う生活を送り、治る頃には左利きに矯正されていた。元々は右利きであったが、5歳の時に砂利道で転んで右腕を負傷する。入団当時は投手として登録されていたが、プロ入り前に左腕を酷使した後遺症で制球と球威に乏しく自他共に認める「軟投派」タイプであった。 そして1950年のシーズン途中に、多摩川のグラウンドで打撃投手を個人的に雇って打撃練習をしていたところ、球が止まって見えるという感覚に襲われた。
169塁打で松木謙治郎の日本記録を更新(安打数は翌年に鬼頭数雄が更に更新した)、12三塁打も当時の最多記録となった(翌年に鬼頭が更新)。 190塁打の戦前最多記録を放ち(1946年に長打数を藤村富美男が、塁打数を大下弘がそれぞれ更新)、1941年にも首位打者に輝いた。最終更新 2024年4月26日 (金) 15:18 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 1946年8月26日の中日戦で、銀座の運動具メーカー南風運動具店からプレゼントされた赤いバットを使ってプレーした。 ヘリポートのあるアークヒルズから23区内への移動はハイヤーとなる。顔立ちに加えて髪などのケアを怠らないことやマイペースな言動が目立つことから、周囲から「ワガママお嬢」と呼ばれている。一旦は退学し、中学済々黌(のちの熊本県立済々黌高等学校)に編入、さらに人吉中学校(のちの熊本県立人吉高等学校)を経て、熊本県立工業学校に復学。熊本県人吉市の大村尋常高等小学校(のちの人吉市立人吉西小学校)時代に九州大会優勝、卒業後、篤志家の援助で熊本県立工業学校(のちの熊本工業高等学校)に入学。
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